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文化間における本質的な差異は単純であり、同等である。 [さらば比較文化論]

刺激を受けた文章があるので少し書いてみる。

日本の教育・英国の教育
http://blog.so-net.ne.jp/syocho/2005-04-11

上記のサイトで、しょちょう氏は日本の教育と英国の教育が拠ってたつ根本的な価値観の相違を述べている。僕にとっては、この論に限らずおおよそ彼の論説は、六年間におよぶ僕の海外生活のうち、特にイギリス、フランスという欧州における桎梏を解消させる日本語による処方箋である。

「帝国主義・植民地主義の放棄」などにより価値観が相対化され、絶対的な価値と客観性を持っているべき自分自身さえも相対的に観察されうる存在なのであるという「ユニバーサルな価値観の崩壊」が西洋におけるポストモダニズムの一側面であると考えると、第二次大戦における敗戦によって、後にアジア各国で隆盛する民族主義までを放棄した日本は、戦後すでにそれを獲得していたといえるかも知れない。それが日本のような歴史的断絶を伴わない「国際社会」において「日本と欧米」「日本とアジア各国」の関係や、大衆レベルで言えば「日韓」「日中」の『問題』に対する温度差としてあらわれたことは、日本人にとっては皮肉なことであった。これについてはいずれ日を改めて論じなければなるまい。

さて、しょちょう氏の論である。教育アイコンとして、日本が努力、勤勉の象徴として挙げる二宮尊徳(金次郎)に対し個人の特異な才能の象徴としてニュートンやスチーブンソンを挙げるイギリス。全ての人が努力することによって平等に機会を与えられている日本と、出身階級さえもその人の資質の一部分とするイギリスの対比は極めて本質的なところを指摘しているように思われる。果たしてイギリスのエスタブリッシュメントestablishment(支配体制)の揺るぎない基礎と現行の政策的実行を見事に裏付けている。

この分析のおもしろいところは、両者が違うということをニュートラルに述べている点である。しょちょう氏は「教育改革において、理念はそのままで表面的な制度のみを変える、あるいは制度はそのままで理念だけ変えることがシステム内部の整合性を奪い、教育現場に混乱をもたらすことを知っておく必要がある」と警鐘を鳴らしているが、もっともなことである。

僕にとってより感覚的に本質的であると思われるのは、しょちょう氏があるところで「創造性を育てる教育」について、とある先生の言を借りて語ったことである。すなわち「創造性creativity」という概念自体がwestern inventionであり、日本の教育にイギリス人が言うところの「creativity」を求めることは、イギリスの教育に「わび・さび」とか「あうんの呼吸」を求めるのと同じなのだということである。非常にもっともなこととしか言い様がない。

ここで大事なことは、これらの差異というものは、それぞれ文化の根本的な所に根差していて非常に重要で敏感な部分であるということだ。しかしながら、このようにより客観的にモデル化することの利点は、差異自体は「違っているという点において極めて同等」であり、異なる二つの文化において、その差異を成す価値は単純であるということを表す点である。この極めて簡単な事実は、とりもなおさず、その間には上下はなく、正しい正しくない、進んでいる遅れているなどの判断もない。ただ同等に「違う」ということだけが残る。それに気づき、それをそのまま受け入れることは観念的には至極当然であり、簡単に言えることである。しかしながら、自分について言わせてもらえば、実際に圧倒的な「普遍的西洋価値」が席捲する欧州に暮らし、それをやるのは甚だ困難な作業であった。自分(または日本、もしく日本人)の文化の優位性と限界をそのまま受け入れ、他人(または西洋、もしくは西洋人)の文化の限界と優位性も受け入れる、そのために僕は六年を費やしたが、非常に得難い貴重な体験をしたと思っている。


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しょちょう

どうも、どうも恐縮です。
ポスト・モダンの考え方が日本では終戦とともに始まっており、欧米からそれが伝わったときには何ら珍しいものではなくなっていたという指摘は僕には結構新鮮でした。
それから「違っているという点において極めて同等」というのも納得です。違いに価値を付与してしまうのは人間の本能でしょうかね?ある社会とある社会が違うというのみでは飽き足らず、そこに「進んでる」とか「劣ってる」というラベルを貼る。そうすると「進んでいる」方は「劣っている」方を「進歩」させなくてはならないという思想が生じる。帝国主義も資本主義も共産主義も昨今の開発援助もこの点においてすべて繋がっているように見えます。
by しょちょう (2005-04-12 08:25) 

三平太

しょちょうさん、早速のコメントをありがとうございます。戦後の日本ですでにポストモダン的な状況が起こっていたとしても、そこになんの国際的な「ユニバーサリティー」が付与されなかったことがある意味非常に日本的ですね。それはやっぱり最初から最後まで日本的バリューだったわけです。あらあら、やっぱり普通の日本論っぽくなってきておもしろくないのでそろそろやめます(笑。ぼくにとってのポスとモダニズム理解というのはアイデンティティーの崩壊が個人レベルでなく、集合的価値観のレベルで起こることという風にとらえてます。

さて、フランスにいた時にはダーウィニズムの影響をイギリスなんかより強く感じましたね。人間>動物、から始まって、白人>非白人、ヨーロッパ人の中ではフランス人>その他というように。そう言う意味では、気違いじみていると思われているナチスドイツの政策も時代の潮流的に自然に行き着いた結末だったのかも知れません。
by 三平太 (2005-04-12 08:51) 

NO NAME

>三平太さん

おじゃましまっす。旧い日記にコメントしますがお許し下さい。
三平太さんの目のつけどころが面白かったので。

しょちょうさんのところでも紹介しましたが、K.バリッジの『個のアイデンティティ』という本、邦訳は絶版ですが、三平太さんにぜひお薦めしたいです。

バリッジは、個と集団を対置させるのではなく、一人の人間を「自己の動物性を統合し社会性を獲得した、常に誰かである者、類的人間=person」と「自己の内面を統合した、だれでもない者、個的人間=individual」のふたつの様相のせめぎあう「タンパク質の塊」として見ます。このタンパク質の塊になみなみならぬ関心を寄せたのが西洋の文化であり、ダーウィニズムもその延長にあります。この本の中では西洋の思想がこのタンパク質の塊をどう捉えるかを巡って発展してきた歴史についても書き、非西洋で個がどうあり得るのかも実証的に論じています。

個人と価値がどういう関係を持てるか考えるためには、事実性をどう捉えるかをしっかり把握しておかねばならんのですたぃ。西洋の学問はそこを回避してないとこが私は好き。

日本だと、事実性は無視して価値だけ論じようとする傾向があるから、議論が袋小路になるんだと思います。西洋社会では、人々が事実にvalidityを置くから、人間性や学問の伝統が積み上がりやすいんだと思う。

またオックスフォードにいらっしゃることがありましたら、ぜひお会いしましょう。機会がありましたら『個のアイデンティティ』の抜粋コピー差し上げますわ。いや、むしろ私がひさしぶりにロンドン行きたいなあ(涙)
by NO NAME (2005-05-10 17:36) 

三平太

古い記事へのコメント、うれしいもんですね。非常に得難いをコメントありがとうございます。「たんぱく質の塊」ですか、バリッジの『個のアイデンティティ』是非読んでみたいですね。ふむふむ、日本は事実性を無視して価値だけ論ずる傾向がありますか。そのお話し、も含めオックスフォードに行く際は是非お伺いしたいものです、、、って「no name」さんになってるんですけど! ロンドンにお越しの際も是非ご連絡ください!
by 三平太 (2005-05-11 03:15) 

HANA

ありゃりゃ、名無しになってました。ごめんなさいまし。そして「タンパク質の塊」も念のため訳本みたら「人間という有機体」といったもっと全然慎重な書き方されてました。記憶で書くと怖いわー。反省しております。ごめんなさいまし。ロンドン、友達もいるし、行きたいです。
by HANA (2005-05-11 07:25) 

三平太

やはりHANAさんでしたね。ロンドンお越しの際は是非ご連絡ください。6月3日以降は空いております。僕もオックスフォードに行きますね。
by 三平太 (2005-05-12 03:08) 

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