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ねたみの心

司馬遼太郎であったか、小室直樹であったか誰かが、
「仏教における最大の功績は『空の発見』である」
と言っていた。空とはなんぞや?

一切の存在は空であると観じ、
一切が空であるから差別の相はないと観じ、
願求すべきなにものもないと観じる。

ある仏教教典の現代語訳にある注釈からの抜粋だ。
上に書いてある状態は、それぞれ

空三昧(くうざんまい)
無相三昧(むそうざんまい)
無願三昧(むがんざんまい)

とあらわされていて、三つあわせて「空・無相・無願三昧」という。上記は無量寿仏の国に住む菩薩たちについての描写の一部分。

お経の現代語訳を読むのはおもしろい。もともと僕は「日本語にうるさい」たちで、むかしから外国文学などで下手な日本語訳にでくわすと最後まで読めなくなってしまうのだが、僕が今回読んでいる浄土三部経の現代語版の翻訳はなかなかよい。お経を現代語で読むと、スケールが大きくて途方もないことが多く書かれているので、何かSF小説でも読んでいるような気がしてくる。

さて、この無量寿仏の国に住むという菩薩たちは、「嫉妬心を滅ぼして、人をねたむようなことがないから、ひたすら教えを願い求めて飽きることがなく、いつも人々のために法を説こうと思い、疲れることがない。」という。

最近、妙なことがきっかけで自分が持つ嫉妬心というものに気づいた。変な話なのだが、怒りや恐れなどに比べると、嫉妬心については今まではあまり気にしていなかった。自分の人生を振り返ると、これが思ったより根が深そうで、毎回のことながらいい「出発点」ではあるのだが、なかなか山あり谷ありの行程で「修行」も楽ではない。


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しょちょう

空の思想はかなり高度な哲学だと思います。僕の理解では「空」とは主体と客体の区別がなくなった状態を意味するのですが、それで正しいでしょうか?主体と客体の区別が無いから、客体への執着がなくなる→嫉妬もなくなる→すべての煩悩(子煩悩も含めて)がなくなる→彼岸に到達できるという図式になるかと思います。この「空」の状態は西洋哲学で言うと現象学的実践に近いと思います。現象学においても「心と体」「主体と客体」といった区別は存在しないことになっています。「空」の理論と現象学の最大の違いは、前者が宗教的な修行によってその境地を得るのに対して、後者は哲学的思弁と論理を深めることによって得ようとしていることですかね。
by しょちょう (2005-05-04 07:35) 

三平太

しょちょうさん、こんにちは。
「主体と客体の区別がない」ですか。論理的にいうとそうなのかも知れないですね。そういう風にたてると現象学は仏教に近い立場かも知れません。現象学は「心と身体」の区別もないといっているのですか? それはおもしろいですね。西洋のアカデミアでいろいろ議論を巻き起こすのも当然ですね。

僕は、実は修行というものをあまり信じていないのです。だから、もし『到達』できるとすれば、もっと直観的に、もしできないのであれば、この人間界に住む智慧の足りない衆生のうちの一人(凡夫=ぼんぶ)として救済してもらうという感じです。僕は浄土系の影響が強いのでこんな感じですが、同じ仏教でも自力門の宗派では修行によって到達するというところも有るでしょう。

現象学については、やはり西洋人が信じきっていた客観性や普遍性が存在しないということを教えている点では評価できます。いわゆる科学的思考法(論理的思考法)の一つとして現象学が登場して、いろんなものをひっくり返してしまったのはおもしろいと思います。ただ、この場合(思弁と論理を深める)でも僕はやはり最終的には直観的に世界を受け入れたいですね。

いずれにせよ、それができる状態が三昧の境地なのでしょう(笑 
ところで現象学の求めるところ(彼らのモチベーション)は何なのでしょう? 
by 三平太 (2005-05-04 09:05) 

しょちょう

現象学が現れた原動力になったのは、おそらく西洋の思想が「主観と客観」「心と体」といった認識論的dichotomyを突きつめていった結果、壁にぶちあたってしまったことでしょうね。分けられないものを分けると無理が生じるというとこに気づいたのでしょう。しかし分けなければ分析はできない。そこが西洋の思想が現在陥っているジレンマだと思います。
東洋の思想では分けない。分けないものを理解するには論理や分析ではなく直観に頼るしかない。その直観を磨くのが自力本願の宗派では修行でしょうかね。他力本願の宗派では絶対的な存在者に救ってもらうということになるのかもしれません。
by しょちょう (2005-05-04 10:03) 

いとけん

その浄土三部経の現代語版、僕も是非読んでみたいです。どこで手に入るの?
by いとけん (2005-05-05 00:59) 

三平太

しょちょうさん、いとけんさん、ようこそ。

西洋の二元論的な考え方というのは非常にユニークな考え方だと思います。今までにいろんなものを生み出してきた二元論が壁にぶち当たって、その限界から大きく脱皮しようとしているならば、それは素晴らしいことではないかと思います。

『その直観を磨くのが自力本願の宗派の修行』というのはおもしろい言い方ですね。このコンテキストのように、あまり直観を磨こうとすると、他力門では「自力に頼る傾向が強い」と言って批判されてしまいそうですね。

仏像、仏画、名号(南無阿弥陀仏など)などは、「方便」として使っているという説明を浄土真宗ではしますね。他力門における救いについて『絶対的な存在者』があるのかどうかは、僕は不勉強でまだよくわかりません。いわゆる「仏」と言うものは「法」であるという話を聞きました。法というのは法則ということだと。メンデルが「メンデルの法則」を見つけたように、釈迦が宇宙の法則を解き明かしたのだと。この話を僕は高校生のときに聞きましたが、ちょっとおもしろいなと思いました。この話はまたいつか書きますね。

いとけんさんの質問ですが、僕が読んでいるのは「浄土真宗聖典・浄土三部経現代語版」と言う書名で、本願寺出版社というところからでています。調べたところ、ほかにも岩波文庫をはじめ、いろいろな現代語訳がでているようです。
by 三平太 (2005-05-05 08:32) 

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