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マスコミは大衆(我々)の何を代弁しているのか -- JR福知山線事故に見る日本の状況 [JR福知山線事故をめぐる諸現象]

今の日本人はここまで自分自身に自信がなくなっているのだろうか? マスコミと一緒になって、誰かをこてんぱんになるまで痛めつける。そして得られるものは何なのだろう。今の日本人にとって「不安である」ということはどういう心理状態なのだろうか。

僕は最初、自分が書いた昨日の記事でマスコミの横暴な報道姿勢に物申そうと思っていた。
http://blog.so-net.ne.jp/sanpeita/2005-05-05
が、書いているうちになんかもっと大きなことが抜けているような気がしてきた。疑問が次々と湧いてくる。

数多くの人達が、このマスコミ状況に疑問を感じている。その反面、マスコミ報道に追従する多くの人々が、ことさら何かにいらだっているように感じるのは僕だけだろうか? 事故原因すら特定されていない段階で、JR西日本に対して表現される憎悪の数々。もしかして本当にJR西日本社内からもさらに犠牲者を出させたいのだろうか。僕はどうしても、イラクで人質になり、解放され帰国した三人のことをおもいだしてしまう。『自己責任』という言葉があったが、どうも「魔法の言葉」という感じで、どう言う意味だったのかつかめたことがない。彼らに罵声を浴びせかけた人々は、そうすることで何が得られたのだろうか?

特定の意識的な目的を伴わずに恣意的に人に対する批判を繰り返す人々について、僕は「自己に対する評価が低く、本人の現状に大きな不満をかかえている人達」という風に認識するようにしている。これは今まで個人レベルで起こるミスコミュニケーションをどう理解するかというコンテキストの中で得た一つの回答であった。これを集合的なレベルで起こるミスコミュニケーションと考えて、今回の事象に適用するとどういうことになるのだろう。

また、上記の「自己に対する評価が低く、各人の現状に大きな不満をかかえている人達」について、自分自身の判断基準が薄弱で、外部の価値基準を個人の内部に取り込むことによって事象を判断する、ある種の共依存的な傾向があるとする。いわゆる共依存というものは一般的に家族間、恋人同士の間、夫婦間などで起こることであるが、これもまた、社会的な集合レベルで同様のことが起こっていると考えるとどうなるであろうか。

そう考えていくとマスコミと大衆の間の微妙な相関関係、または共犯関係のようなものが見えてこないか。その構図というのはいったい何なのだろうか。それは今特別に起こっていることなのか、日本でだけ特別に起こっていることなのか。そして、これから我々が、よりふさわしい健康的な社会を再構築していく際に必要なプロセスは何なのだろうか。

JR福知山線事故に関してのマスコミ報道について、今回自分が記事を書いたことで、多くの人が疑問を持ち、また多くがネット上でいろんな考えを展開されていることを知った。これは僕にとってはある意味画期的なことで、とうとう僕も「インターネット時代の夜明け」に洗礼を受けたのかも知れない。これからインターネットは思っていた以上に大きく社会に影響を及ぼしていくかも知れない。

<当ブログ内関連記事>  [JR福知山線事故をめぐる諸現象(その1)〜(その3)]  

(その3)自他の区別と境界 -- 私たちは何を求め、誰に何を期待しているのか? JR福知山線事故 
http://blog.so-net.ne.jp/sanpeita/2005-05-06-1
(その1)マスコミによる人身御供 -- JR福知山線脱線事故
http://blog.so-net.ne.jp/sanpeita/2005-05-05


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三平太

個々人が社会的なリアリティーに対して引き受ける責任感のようなものでしょうか。そういうものが脅かされている。JRに対する一般的な罵倒は、僕には彼らの悲鳴に聞こえます。
by 三平太 (2005-05-06 04:50) 

僕は今回の列車事故の原因は私個人にも責任あると思っています。より便利な社会を求めて過密なダイヤを求めてそのシグナルを送っていたのは私なのではないかと。鉄道会社に責任があるのは分かりますがそこばかり議論してもまたこの様な事故が起こるようなきがしてなりません。政治の腐敗にしろ政治家を選んだのは我々でありマスコミのこの姿勢も我々が知らず知らずのうちにシグナルを送りかわっていったのかもしれません。遺族でない方々がされる怒りは結局はこういった社会をうみだした自分達にむけているんじゃないかと。
話変わりますが三平太さんや他の方々の書かれているブログを見ていると自分は何のためにブログをしているのかかんがえさせれます。意味のないぼやきをしていた自分がはずかしくなりコメントしてくれた皆様には悪いのですがブログ全部消去しました。有意義なブログが増えればそれだけでも社会の意識って変わっていくのではないかとみていておもいました。当分悩んでからブログを始めるか決めたいと思いますがコメントはしたいと思うので三平太さんこれからもよろしくっす。
by (2005-05-06 05:26) 

しょちょう

三平太さん
ちょっと話がずれるんですが、今回の件でもまた「責任論=辞職論」がでているようですが、一体全体「責任」って何なんでしょうね?ある事故が起こったとき、どの人にどれくらいの「責任」が生じるのかというのが非常に不明瞭なんですね(少なくとも僕にとって)。
ある組織の中で大きな失敗が起こったときに、誰にどれくらいの責任を負わせるかは社会的に構築されたものではないかと思います。日本とイギリスでは責任の取り方が違うような印象があります。
by しょちょう (2005-05-06 07:25) 

しょちょう

ナイトさん
悩まないで下さい!ブログは思いついたことを書けばいいのではないでしょうか?
by しょちょう (2005-05-06 07:26) 

死前問うた

はじめまして。

生命は、死を恐れない。死の面前で、
笑いながら、踊りながら、滅亡した人間を踏み越えて進んでゆく」

魯迅の言葉である。

地球規模で考えれば、一方で死者が出て、
一方で遊びに興じて美味いものに舌鼓を打つ。
こういう現象は日常茶飯事に起きているのでは?
ぼくも事故当日はビリヤードに興じてました。
ソマリア難民の飢餓や旱魃で日々死に行く子供達を見たら、
日本人(特に関西人)はまだまだ甘チャンだなぁと思います。
生きることだけに意味や価値を見出そうとするから、
中途半端なヒューマニズムに走りがちになるのでは?
死ぬこともまた意味があり価値があるもので、
生きているものは全て土に還り地球の一部になる。
自然現象(地震や旱魃、水害など)も地球が生きている証拠で、
人間もその一部(というか寄生虫?)に過ぎないのです。
これがごくごく自然な現象であり現実だと思います。
最近のマスコミの論調を見ていると、そういう現実から逃避して、
他の事物に責任転嫁し過ぎなのではと熟々思います。
孫子の兵法(他を知り己を知るは百戦危うからず)じゃないですけど、
とってつけたような正義面を提げて、JR西日本(特に垣内剛社長)を
利益優先主義と槍玉に挙げる前に、まず自分達が視聴率第一主義である
ということを認知して貰いたいものです。
by 死前問うた (2005-05-06 12:12) 

makiri

ナイトさんへ

こう書くと誤解がありそうですが、
私は三平太さんが書いてる事も一種の「意味の無いぼやき」だと思いますよ。
無駄が多い社会が豊かな社会なのではないかと思うのです。
社会の意識を変えるような有意義なブログは
自分の中に言葉が入って来ないのです。

この記事に書いたナイトさんのコメントには
とても興味を惹かれました。
ナイトさんがどう思ったか伝わりましたから。
「私」がこの事故にどう関わっているのかという視点は
忘れがちな事なので「なるほどなぁ」と思いました。
by makiri (2005-05-07 00:12) 

三平太

みなさんコメントありがとうございます。シリーズで第三回まで書き進めることになりましたが、次回、僕の意見は最終的には『自己承認』というところで結論づけたいと思っています。不完全な自己、矛盾をはらんだ自己を承認すること。自己を受け入れることができれば、他者や不完全な社会自体を受け入れられるようになるのではないかと。自他が同時に承認できると、自分の立場や責任、そして他者のそれがはっきり見えてくる。僕はそういう豊かな社会を作っていきたいです。

ナイトさん。
ナイトさんの意見、僕はすっと心の中に入って来ましたよ。今回の事件については、怒ったり、非難したりが多いですね。それはそれで表現として意味があると思います。しかし、この事件を通して自分が社会とどうかかわっているのか、自分の責任を考えることができている人が意外と少ないように思えます。是非、またご意見を聞かせてください!

しょちょうさん
僕は、日本で責任をとる立場になった人達の「引き受け方」というのは、ある種尊いものを感じます。ある種の武士道的美学がそれを支えているのかも知れませんね。いまの日本では、それしかマスコミや市民の反感を取り除く有効な方法はないように感じます。直立不動にして深々と頭を下げる会社幹部がでているシーンを目にするたびに、大衆的『糾弾』というか、革命的さらしものというか、一種の違和感や恐ろしさを感じます。

死前問うたさん
なかなかスケールの大きな話ですね。生と死、まさにこの事件が扱ったテーマかも知れません。そういう想像力も私たちには欠けているかも知れないですね。

makiriさん
無駄なものの多い社会が豊かな社会。社会が多様な価値観であふれている以上、誰の文章も意味のないぼやきと受け取られる可能性がありますね。逆に意味のないぼやきだと作者が思っていたものでも、それから本質的な何かを感じる人もいるわけです。インターネットはそういう意味でやはり革命的な発明なのかも知れません。
by 三平太 (2005-05-07 02:36) 

風刺童子

JR福知山線事故で亡くなられた方々のご冥福と、ご家族・ご親族の皆々様に心からお悔やみを申し上げます。 「社会の正義」を旗印に活躍されておられるマスコミ諸君、私は諸君の知る権利の乱用には腹が立っています。亡くなった家族にマイクを向け、「今のお気持ちは。」と問いただす。答えは相手に対する憎悪の答えに決まっているじゃないか。 雪印を潰し三菱自動車をこれでもかと叩き、今度はJRか。自分のしていることに責任を持たない現在のマスコミ体制にはウンザリしています。 これからは新聞購読者が減り、NHKの受信料を拒否する者が増えることと思います。それがマスコミに対する抗議と考えてください。
by 風刺童子 (2005-05-07 08:40) 

三平太さんへ
事故当日の「人が死んでるんやで!」と記者が罵声をちらしたあたりからすでに報道が「脱線」していたのではないでしょうか。わかっているくせに「青いビニールシートなんで覆うんですかね?」とか、現場の状況知らずに「なんで重機入れないですか?救出活動遅すぎる!」というキャスターがいるくらいですから。
確かにJR西日本の社員の対応も悪いですが、三行記事をトップ項目にデカデカと扱うマスコミにはあきれました。
by (2005-05-07 13:25) 

JIRO

三平太さん、はじめまして。「JIROの独断的日記」のJIROです。
TBと、大変ご丁寧な、コメントをありがとうございました。

三平太さんのお書きになったものを読ませていただき、はっとしました。
人々は、どうして、ボーリングへ行ったJR西日本の職員を責めるのか?

心理学でいうところの「投影」でしょうか?
自分もそうしてしまうかも知れない、しかし、自分ではそれを認めたくない、という気持ちが抑圧されていて、JRの職員に投影され、これを攻撃することによって、自分が抑圧している「やましさ」を誤魔化そうとしているのかもしれませんね。

こちらこそ、大変、勉強になります。
今後ともよろしくお願いいたします。
by JIRO (2005-05-10 18:56) 

三平太

みなさんコメントありがとうございます。

風刺童子さん。
僕はこれからインターネットがそういうマスコミの監視役になっていくのかなぁと思ったりしております。

Gonbe123さん
もうキャスター制自体をやめたほうがいいと思います(w)。僕が子供の頃のニュースは、アナウンサーが記事を読むだけの淡々としたものでした。見ているほうも淡々と考えていました。マスコミには国民の心理状態を安心させる努力をお願いしたい。

JIROさん
コメントありがとうございます。ぼくはJIROさんのおっしゃるように「JR職員を攻撃することによって、自分が抑圧している「やましさ」を誤魔化そうとしている」という風に考えていました。これはある意味「負」の側面ですよね。これに対しmakiriさんは、人々のこうした行為の裏には「善を為したい」という肯定的な意図が働いているのではないかとおっしゃっています。「不安だから良いことがしたけれど、どうしていいのかわからない」のだと。そこで「正義」が出てきてそれにおんぶに抱っこする形で善を為そうとしてしまう、
僕は両方の側面があると思います。いずれにせよ僕は、ここに「自己」評価の低さを認めます。自己の承認、そして他者の承認が責任を持って行われるにはどうしたら良いのでしょうか。僕はできると思うのですが。

makiriさんの記事 『最近のマスコミ報道と人々の心理について考える』
http://blog.so-net.ne.jp/makiri/2005-05-10
by 三平太 (2005-05-11 03:49) 

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