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「個人主義」か「全体主義」か -- 文脈の喪失・さらば比較文化論? [さらば比較文化論]

しょちょう氏のブログ記事「西洋の傲慢さ、東洋の自己欠如」(http://blog.so-net.ne.jp/syocho/2005-05-07-1)を読み思うことを少々。

いやはや『個人主義』についてですね。初めに言っておくと、僕にとっては極めて微妙なトピックなんです。当該記事では個人主義についての定義を「『個々の人が独自の意見を持ち、その意見に責任を持つ』という意味での個人主義である。」としていただいているので、議論が明瞭で非常にありがたいのですが、それでも僕には敏感なトピックなんです。『個々の人が独自の意見を持ち、その意見に責任を持つ』、ものすごくいいことのように聞こえるんです。そして、それは実際にいいことかも知れません。しかし、やっぱり微妙なんです。

なぜ微妙かというと、僕自身、個人的には、実は「『西洋』か『東洋』」とか、「『個人主義』か『全体主義』」かと言うような議論のたてかた自体が非常に不毛に思われてきたわけです。例えば、僕の以前の記事「文化間における本質的な差異は単純であり、同等である」(http://blog.so-net.ne.jp/sanpeita/2005-04-12-1)でも書いたのですが、本当に文化間における本質的な差異が単純でかつ同等なのだと思った時点で、今までリアリティーを持っていたいろんなものが急に色褪せて、なにも表現しなくなってしまう、つまり意味を失ってしまったわけです。

もう少し説明しますと、『個人主義』とか『全体主義』とかいう言葉が、洋の東西を問わず、ある「特殊なコンテキスト上」で今まで持ってきた意味と付加価値が一挙に消失してしまうわけです。それは例えば、単純な喩えなのですが、個人主義をユニバーサルな価値と信奉し全地球的な商業活動にいそしむ人々(global capitalistsとでもいおうか)が全体主義的な行動をしているように見えたりするわけです。そしてこの単純なモデルによって起こされる、その意識的なシフトが、僕の中では大きなインパクトをもって、パラダイムを転換してしまったわけです。

例えば本当に我々に必要なものは何なのでしょうか? ある種の東洋人の行動の多くに共通に感じられる『自分のなさ』は本当に「個人主義」の欠如なのでしょうか? もし仮に、そうであったとすると、その「個人主義」が内包する、真に重要な「価値」とは何なのでしょうか? もしくは『独自の意見と責任』のモデルが無意識的なレベルでどこにあるのか。さらに『独自の意見と責任』を持つことで得られるものというのはいったい何なのか、それが今の僕にとっての本質さの追究です。

西洋人であれ何人であれindivisualismとか個人主義とかいう言葉を聞く時に、僕はある種の呪術性を認めてしまう。そして数多くの呪術的な言葉は同時に手垢にまみれたものであり、そしてそれは多くのリアリティーを支えていることに気づく。そしてその言葉が持っていた「魔法」的な作用を、どういうわけか無効化された人間がいるわけです。彼がその言葉が持つ呪術性を感じたときに何が起こるのかというと、リアリティーとして文脈の喪失が起こる。

そして最終的には僕個人のレベルに還元されていくのです。その文脈上のリアリティーの喪失が、ある種の多幸感をもたらすわけですが、それはとりもなおさず新しい旅の出発のようでもあるわけです。ここに論理的な整合性(分かりやすさ)をここで表現できるとは思わないのですが、僕は最近の自分のテーマである「承認validation」ということにどうしても思いをいたしてしまう。話の展開が大きく飛躍してしまったところで今日のお話は終わりにします。この文章を書くきっかけを作ってくれたしょちょう氏に敬意を表します。

<関連記事>

「西洋の傲慢さ、東洋の自己欠如」
http://blog.so-net.ne.jp/syocho/2005-05-07-1
「文化間における本質的な差異は単純であり、同等である」
http://blog.so-net.ne.jp/sanpeita/2005-04-12-1


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しょちょう

まず最初に全体的な感想を一言で表現させてください。ナイスです。ある意味達観した意見といえるでしょう。比喩的に言うと、僕が相撲をしている土俵の外側に出て「お、やっとるのう、でも何のための相撲なん?」と問いかけているように見えます。
さて、三平太さんの議論の肝はこういうことと解釈します

「東洋・西洋とか個人主義・全体主義といった議論のたて方はそいうった語が指し示す内容を脱文脈化してしまい、意味が無い。リアリティーを感じない。」

なるほど。非常に現代思想的な、あるいは現代思想のさらに先を行く考え方かもしれません。東洋・西洋とか個人主義・全体主義といった対立概念は分析のためのツールです。ですから余分な手垢(文脈context)はそぎ落とさなければなりません。シンプルで「中立的」な概念ということになっています。そうするとこういった語を駆使して議論することにリアリティーがなくなるのは当然の帰結かと思います。そういった分析的概念や論理を駆使して何が得られるのか、そもそも何かを言語化した時点でそのものの文脈は自動的に奪われる。では真理を捉えるにはどうしたらいいのか?→直接経験と直観です。

禅ですよ、禅。仏教思想はこういった根源的に問いに答えてくれそうな何かを感じさせます。でも今はまだロジックを駆使して議論することに意義を見出しているので、帰国したら勉強してみます。笑
by しょちょう (2005-05-08 17:39) 

三平太

しょちょうさん。「ロジックを駆使する議論」僕は好きです。今回のぼくの持論は、うまく表現されてない感じで、まことに心苦しい。しかし、これも一つのプロセスなので甘受しようということです。その不完全にお付き合いいただいていることに感謝しているわけです。

さて、僕の議論の『肝』についてですが、実はしょちょうさんにまとめていただいたほどにはシンプルなものではないのです。(だからこそ微妙でありうまく表現できない自分が心苦しいのですが)。一方で僕は脱文脈化してしまったため「文脈そのもの(コンテキスト)」にリアリティーを感じないのですが、そうであるが故に『個人主義』などという「個別の語」については、以前にも増して増幅されたリアリティーが付随してくるといっているのです。(これは無意識に同一化する集団内部における個人のアイデンティティーを揺さぶります)。それを僕は『呪術性』とか『魔法』という言葉で表現しました。この種の呪術性や魔法は遍在している、だからいい悪いではない。ただ、特にこの手のコンテキストにおいて、何とかしてこの呪縛を解き放ちたいと思っているわけです。

その作用はしょちょうさんがStockwin教授の言葉に引っかかったリアリティーと同じなのではないかと。つまりStockwin教授が述べた「日本の民主主義はどの程度健全なのか?」という発言の中で、無前提に(少なくともその言葉が持つ魔法が通用しない者にとっては)使われた『健全』という一つの単語のもつ呪術性、神話性のようなものがあることはしょちょうさんが指摘されている。日本の民主主義が健全か病的かは「英国における民主主義」あるいは「欧米が理想とする民主主義像」に立脚した判断であると。しかしStockwin教授がどういう意味で言ったのかと、我々のパーセプションとしてのStockwin教授の言葉の意味には必ずしも共通点がない。それだからこそしょちょうさんは、そこをはっきりさせるため、もしくは結果的にある意味で中和化(neutralise)するために人類学的見地から根本的な質問をされようとしたのではないですか?
by 三平太 (2005-05-09 02:49) 

しょちょう

まあ、そんなところです。僕が彼の表現で気になったのは呪術性とか神話性というよりも、「差にたいする価値の付与」ですね。日本の民主主義をヨーロッパが目指す「民主主義」を物差しにして測り、健全だとか病的だとか言うのは学問的な姿勢としていかがなものかというのが僕の意見なのです。
三平太さんの言わんとしていることが今ひとつ理解できないのですが・・・・。
by しょちょう (2005-05-10 08:53) 

三平太

そうですね。どうも違う次元の議論をたててしまったようで、混乱しますね。これは僕の説明が足らないのです。僕が言おうとしていることは至極単純なことのはずなので(笑)、次回は分かりやすく説明できるようになっているはずです。それまでちとお待ちを。
by 三平太 (2005-05-10 11:50) 

makiri

面白い議論ですねー。

『個人主義』『全体主義』という言葉を使ってますが
私は二人の議論が「何に自己を感じるか?」と言った
哲学的な話に見えるのです。

しょちょうさんがご自身のブログで
『「一部の軍閥によって煽られて戦争へと駆り立てられた」とされている戦前世代の日本人、「反日」を掲げて荒れ狂う中国人や韓国人、マスコミに煽られヒステリックに特定の会社たたきをする日本人、マスゲームをする北朝鮮の民衆・・・・
僕はこの人達になにか共通する「自分のなさ」を感じる。』

と言っていた様に、自分の無さをを感じた時に個人主義が欠落したように思われているのですよね。

たぶん、三平太さんはそこに「自分の無さ」を感じてはいないのではないかと思います。
また逆に、Stockwin教授のような立場で気ままに
「日本の民主主義はどの程度健全なのか?」と言った発言をする様な
西洋の・・・文化的背景(?)が「個々の人が独自の意見を持ち、その意見に責任を持つ」という土台がある様にも思えないと言った感じなのでは無いでしょうか?

個人的には「全体主義」も「個人主義」も「西洋の民主主義」も興味は無いのですが(すいません)
「何に自己を感じるか?」と言ったトピックには興味津々です。

横やり入れてすいませんでした。
by makiri (2005-05-10 13:43) 

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