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自他の区別と境界 -- 私たちは何を求め、誰に何を期待しているのか? JR福知山線事故に関するマスコミ報道をめぐって [JR福知山線事故をめぐる諸現象]

先の二つの記事で大きな反響をいただいた。僕は当初、福知山線事故に対するマスコミの強迫観念的な報道姿勢に憤った。そして、書き続けるうちにこの事件自体が、いま多かれ少なかれ我々がかかえている問題、それを表現させるきっかけになっていったのではないか、と思うようになった。そして、その表現されたものの多くに感じることは、マスコミが終日行っている表現同様、共依存的な不健康さ、つまり自他の区別の欠如であり、それは言い換えれば自他の境界線の薄弱さであった。

当該事件とは関係なのない、枝葉末節な問題をあげつらってはJR西日本の『体質』を過剰に批判する報道と、それに同調して感情的にJRを指弾せざるを得ない人々。何かがおかしいと思いながら、なかなか発言ができない人達や控えめに発言する人達。表出した控えめな反対意見を『JRは人を殺しているのにそれを弁護するのか』と指弾する人達。マスコミの報道にどういう人達がどういう風に反応しているのかを探っていく過程は、さながらいじめ社会の極端なサンプルを見るようであった。

この事件そのものについて「この事件が今の日本全体のゆるみ体質を表現している」のだとの指摘もある。その場合には『ゆるみ』と言うことばが、どういう価値観に基づいて表されているのかを検証しなくてはいけない。価値観のレベルで物事を語る時には、それがどれだけ人々の無意識に浸透しているのか、価値として現在どれだけ有効であるかを計る必要がある。

さて、人々はなぜこれまでもこの事件に惹かれるのだろうか、そして何を表現しているのだろうか? 人々の過剰な反応は、とりもなおさずマスコミが煽った「せい」なのか? マスコミが煽っているというのは、事実、視聴者の不健康な心理循環を促進していると言う点で見過ごしてはいけない要素ではある。『やっぱりマスコミが全て悪いのでは?』と言う意見も聞くが、果たして問題はそこにあるのだろうか? 答はもちろん否である。

僕が今回、マスコミと視聴者の間で交わされた一連のコミュニケーションの中に感じたものは、自他の区別の欠如だった。それは言い換えれば自他の境界線の薄弱さである。こういう意味で、メディア側にも視聴者側(ブログなど)にもはっきりと自己、もしくは自己の立場が確立している人の意見を見ることが少なかったように思える。

事故の被害者になった人達の立場になって考えてみる想像力は、事故の責任をとる側のJRの社員の立場を想像するまでには及ばない。現場を去った二人の運転手、天王寺車掌区のボーリング大会に行った人々。彼らの行動は満点ではなかったかも知れないが、それをもってJRの職員は狂っているとの指弾は何を表しているのだろうか。 

多くの発言がパニック性を帯びている。それは自分もその場を去ってしまうかも知れないと言う、無意識的自責の念だろうか。自分たちももっと人間的に生きたいのに、実際にはそうできない状態にいるという悲鳴だろうか? いつも完璧で満点でいなければいけない自分、でも実際の自分はそうではない。その上そうではない自分もどう引き受けていいのかわからないという叫びだろうか。僕にはそんな風に聞こえてくる。

我々の住んでいるところは、こんなにも寛容さのない社会だっただろうか。そうだとすればなんと悲しいことではないか。過ちはだれしもが犯すことだ。それは償うことができる。そして過ちが起こらないように、我々はともに努力していくことができる。我々はいつから、自分にも他人にも、人間に対してそんなに厳しくなってしまったのだろうか?

<関連記事>   [JR福知山線事故をめぐる諸現象(その1)〜(その3)]  

(その1)マスコミは大衆(我々)の何を代弁しているのか -- JR福知山線事故に見る日本の状況
http://blog.so-net.ne.jp/sanpeita/2005-05-06
(その2)マスコミによる人身御供 -- JR福知山線脱線事故 
http://blog.so-net.ne.jp/sanpeita/2005-05-05


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マスコミは大衆(我々)の何を代弁しているのか -- JR福知山線事故に見る日本の状況 [JR福知山線事故をめぐる諸現象]

今の日本人はここまで自分自身に自信がなくなっているのだろうか? マスコミと一緒になって、誰かをこてんぱんになるまで痛めつける。そして得られるものは何なのだろう。今の日本人にとって「不安である」ということはどういう心理状態なのだろうか。

僕は最初、自分が書いた昨日の記事でマスコミの横暴な報道姿勢に物申そうと思っていた。
http://blog.so-net.ne.jp/sanpeita/2005-05-05
が、書いているうちになんかもっと大きなことが抜けているような気がしてきた。疑問が次々と湧いてくる。

数多くの人達が、このマスコミ状況に疑問を感じている。その反面、マスコミ報道に追従する多くの人々が、ことさら何かにいらだっているように感じるのは僕だけだろうか? 事故原因すら特定されていない段階で、JR西日本に対して表現される憎悪の数々。もしかして本当にJR西日本社内からもさらに犠牲者を出させたいのだろうか。僕はどうしても、イラクで人質になり、解放され帰国した三人のことをおもいだしてしまう。『自己責任』という言葉があったが、どうも「魔法の言葉」という感じで、どう言う意味だったのかつかめたことがない。彼らに罵声を浴びせかけた人々は、そうすることで何が得られたのだろうか?

特定の意識的な目的を伴わずに恣意的に人に対する批判を繰り返す人々について、僕は「自己に対する評価が低く、本人の現状に大きな不満をかかえている人達」という風に認識するようにしている。これは今まで個人レベルで起こるミスコミュニケーションをどう理解するかというコンテキストの中で得た一つの回答であった。これを集合的なレベルで起こるミスコミュニケーションと考えて、今回の事象に適用するとどういうことになるのだろう。

また、上記の「自己に対する評価が低く、各人の現状に大きな不満をかかえている人達」について、自分自身の判断基準が薄弱で、外部の価値基準を個人の内部に取り込むことによって事象を判断する、ある種の共依存的な傾向があるとする。いわゆる共依存というものは一般的に家族間、恋人同士の間、夫婦間などで起こることであるが、これもまた、社会的な集合レベルで同様のことが起こっていると考えるとどうなるであろうか。

そう考えていくとマスコミと大衆の間の微妙な相関関係、または共犯関係のようなものが見えてこないか。その構図というのはいったい何なのだろうか。それは今特別に起こっていることなのか、日本でだけ特別に起こっていることなのか。そして、これから我々が、よりふさわしい健康的な社会を再構築していく際に必要なプロセスは何なのだろうか。

JR福知山線事故に関してのマスコミ報道について、今回自分が記事を書いたことで、多くの人が疑問を持ち、また多くがネット上でいろんな考えを展開されていることを知った。これは僕にとってはある意味画期的なことで、とうとう僕も「インターネット時代の夜明け」に洗礼を受けたのかも知れない。これからインターネットは思っていた以上に大きく社会に影響を及ぼしていくかも知れない。

<当ブログ内関連記事>  [JR福知山線事故をめぐる諸現象(その1)〜(その3)]  

(その3)自他の区別と境界 -- 私たちは何を求め、誰に何を期待しているのか? JR福知山線事故 
http://blog.so-net.ne.jp/sanpeita/2005-05-06-1
(その1)マスコミによる人身御供 -- JR福知山線脱線事故
http://blog.so-net.ne.jp/sanpeita/2005-05-05


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マスコミによる人身御供 -- JR福知山線脱線事故(その1) [JR福知山線事故をめぐる諸現象]

日本のマスコミの大衆操作には以前から頭にきていたが、今日は一言いわせてもらう。福知山線関連の報道で僕はかなり憤っている。今日の論点は二つ。一つはマスコミによる特定の会社たたき。もう一つは事故の延長で今回行われているJR批判の内容だ。今日は時間があまりないので「マスコミ」とひと括りにすることには違和感を覚えるが、簡潔に述べる。

一つはまずマスコミの会社たたき。この手のマスコミの煽り体質については、いい加減頭にきている。今回のJRの事故では、事故原因の特定すらできていないのに、JR絡みの小さな問題を見つけてきてはJR批判。この前は日本航空がターゲットになっていた。そしてその前は三菱自動車か。正義をふりかざすマスコミが、つぎに犠牲者となる対象を虎視眈々と狙っている。イラクで人質になった3人が帰国した時もそうだったが、これはマスコミの暴走ではないのか? ある会社が起こした問題を社会に知らせることはいい。しかし、過剰に問題をほじくり出し、当該事件と強引に関連づけ、それを「会社の体質」と言い切り断罪する。マスコミが世論を導いていこうとする使命感を持つのは構わないが、対象をセンセーショナルに作り上げ、それを恣意的に批判するやり方はいかがなものか。

もう一つは上記に関連することであるが、今回の車両に乗っていたJRの運転士2名のこと、そして天王寺車掌区によるボウリング大会についてである。2名の運転士が事故現場を去って出勤してしまったことに対して、たとえば巨大台風が上陸しているにもかかわらず出勤を強要する会社が多くある今の日本においては、僕は特に異常な行動とは思わない。この運転士が出勤しないことで支障がでる電車の運行、そしてそれによって受けるたった何十分かの遅れこそが、日常の我々のもっとも大きな関心事ではないのか? ボウリング大会が行われたことについても、直接事故とは関係がない。何でもかんでもJRの責任にすればいいというものではない。我々の住んでいる現代社会というのは、自分がそういう事故に遭遇し、または巻き込まれてしまうかも知れない危険性をはらんでいる。そして、自分がなにがしかの事件の責任を負う立場になることも十分にありうる。

僕には遺族の怒りや悲しみを煽って、より多くの人を不安にさせているマスコミには大きな責任があるように思える。事故直後にパニック状態に陥っている被害者に強引にインタビューしていた諸君、乗り合わせたJR職員を責めるなら、君たちこそ救助に加わるべきではなかったのか? 被害者の心的外傷を悪化させるような質問をしている映像のあとで、君たちに「心のケア」を語る資格などない。遺体安置所で遺族や情報収集に訪れた人々がマスコミ諸君から受けるこころない取材のストレスは、最終的に君たちとの合作ですべてJRに転嫁させざるを得ないではないか。

マスコミは、熱狂を帯びた大衆を信者とするある種の悪魔的な儀礼の主宰者として、常に人身御供を探しだし、断罪し、中世の魔女狩りのごとく日本を支配しているように見える。その反面、意外と「マスコミとはできるだけかかわりあいにならないほうがいい」と思っている人も多いのではないか。僕はマスコミによって、毎日津波のように圧倒的な勢いで押し寄せてくるものからまず自分を守らなくてはいけない。

<当ブログ内の関連記事>   [JR福知山線事故をめぐる諸現象(その1)〜(その3)]

(その2)マスコミは大衆(我々)の何を代弁しているのか -- JR福知山線事故に見る日本の状況 
http://blog.so-net.ne.jp/sanpeita/2005-05-06
(その3)自他の区別と境界 -- 私たちは何を求め、誰に何を期待しているのか? JR福知山線事故 
http://blog.so-net.ne.jp/sanpeita/2005-05-06-1


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