志賀直哉 「網走まで」「正義派」 [ほん]
引き続き志賀直哉の短編集を読んでいる。なんというのだろうか。非常に写実的に書かれている。淡々と書くのだが、控えめにリアリズムを感じる。僕は海外暮らしというのもあってか、永らくこういう情景から離れていた。そして、現代の文学というものの中には、起承転結やドラマチックさというのはよくあるが、あまりこういう風景が出てこないような気がする。とはいっても、今の文学作品がどうなっているかについて、僕が正当に論じられる状況にはまったくないわけだが。
「正義派」で扱われている内容は、昔読んだ芥川竜之介の短編などにも見られる気がする。この話では都電の線路工夫だが、芥川のトロッコなどもこの手の労働者が出てくる話しだ。プロレタリア文学でなくても、こういう話がよく出ていくるのは、明治・大正・昭和と日本が発展していく過程、そういう時代的なものなのだろうか。
「網走まで」は汽車物である。子供と嬰児を抱えた女性と上野発の汽車に乗り合わせる話だ。びっくりしたのは、この話し、いきなり終わってしまう。なんということだろうか。小さな情報が多くちりばめられたところで、あまりに唐突に終わってしまうので、いろいろ想像せざるを得ないのだ。
汽車というのはおおむね、おもむきのある乗り物体験だ。戦後金の卵を満載してやってきた東北からの列車。石川啄木の停車場。そういう体験には独特の匂いがある。匂いといえば、芥川の「蜜柑」を思いだした。
清兵衛と瓢箪(志賀直哉) [ほん]
志賀直哉「清兵衛と瓢箪・網走まで」 新潮文庫
こっちの友人と食事をする際に、ソーホーの日系古本屋、徒波書房(あだなみしょぼう)に立ち寄った。その友人は僕に、彼がかねてから影響を受けたという本、マルクス・アウレリウスの「自省録」を買って贈ってくれた。僕は志賀直哉の文庫本「清兵衛と瓢箪・網走まで」を買った。
「清兵衛と瓢箪」は小学生の時に読んだ。通っていた塾の国語の授業で「読書シート」と呼ばれる、短編ばかりを集めた教材があった。一週間に一編ずつ配付され、一年間で数多くの短編を読んだ。「赤いロウソクと人魚」は小川未明だったか。宮沢賢治の「よだかの星」はよくわからなかった。芥川の「白」には感激していた。などなど、数多くの文学作品に触れることが出来た。中学受験勉強の塾通いだったのだろうが、これだけはいいきっかけをもらったと思う。
僕は短編が好きだ。これはこの時の影響かもしれない。特に芥川竜之介の短編が好きだったし、今も好きだ。
志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」は、なんとも懐かしい原風景のような物を思い出させてくれる。今の僕の感覚からすれば、描写される風景は、非常に素朴な日本の風土で、文体は非常に斬新に思われる。僕はこういう物を失いつつあった。
読み終えてすがすがしい。こういう世界があったのだな。こういう感覚があったのだな。それは僕が小学生のときから、僕の中のどこかに常に一緒にあった精神的風土だった。これがあれば日本に帰ってもやっていける。そんなことを想った。