SSブログ

「なぜ」という問いは必ず科学的たりうるのか [その他諸々]

いろんなことに「なんでなんだろう?」と考えることは、必ず科学的なアプローチになるのだろうか? それにたいして僕は否と答える。

ここで僕のいう科学というのは、それを探求することによってどこかに理論的にせよ実用的にせよ、実効的な応用が付随して、最終的には人類に豊かさをもたらすと言う意味を持っている。そういう意味では、科学的と言う言葉を哲学的、あるいは宗教的と置き換えてもいい。実効的な応用は、もちろん肯定的、否定的な両側面において具現化されることになるが、そこには選択性がある。

僕はいろんな理由で、小さい時から「どうしてなんだろう」「なんでなんだろう」と考えて育ってきた。周りからはそれが哲学的思索のように見えたようだが、それは一種の癖であって、必ずしも人生や世界にたいする肯定的なイメージを生産するものではなかった。

いまここで、あらゆるものに対して発せられる「なぜ」「どうして」は、人生を、そして人類をより平和で豊かな方向へ持っていくものたりうる。どういう姿勢を持って科学にのぞむのか、それは哲学、宗教に対する姿勢同様に我々が選ぶことができるものだ。そしてそれは、それらの応用についても同じことがいえる。


nice!(0)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問・資格(旧テーマ)

nice! 0

コメント 6

しょちょう

久々ですね、この系統の記事をここで見るのは。お帰りなさいませ、といったところでしょうか。
科学を哲学や宗教と対比させているところから見ると、ここでいう科学とは自然科学のことだと解釈します。僕個人の意見としては、「なぜ」を問うことはすべての学問に共通した要素で、科学のみに見られる特徴ではないと思います。同様に、応用性や実用性を追求することもまた科学の特徴ではなさそうです、なぜなら純粋数学は哲学同様に実用性を軽視した学問であるし、法学や文学や宗教の中には実利性の高いものが含まれているからです。
何が自然科学なのか、というのは難しい問いですが、おそらく自然現象を経験的に捉え、それを「科学的枠組み」の中で抽象化する作業のことを科学と言うのだろうと思います。そして「自然」とは何か、「科学的枠組」みとは何かに関しては自然科学者、社会学者、人類学者、哲学者が喧々諤々の論争をしており、「サイエンス・ウォーズ」と呼ばれているようです。
by しょちょう (2005-08-02 02:55) 

usagi

再生できる経験が「科学」で、異なるファクターの追加で応用した場合や100%の再生が未だに不可能な場合などが「自然」のくくりに入るのでしょうか?

アインシュタインも言ったように核連鎖反応の発見が人類の滅亡につながるわけではないと思いたいです。と同時に、利用する際には必ず利用する側の論理や意図が入るわけで、そのユニバーサル度合は非常に推し量りがたいなあという気がします。

私的には「なぜ」は扱うのが難しいテーマです。学校に入りたての頃先生が黒板に「花が赤いです」と書いた時「なぜ『赤い』のあとに『です』がつくの?」と聞いたことがあります。これは、実はそれまで「お花が赤いね♪」などと家族と話す事はあっても、そんなに形容詞のあとに『です』をつけた経験がなかったところから来た違和感に由来していたんだなあ、と。この時の「なぜ」は不安に起因する反射的なものでした。「なぜ」は教育を含め自分の文化的背景に起因し、ともすれば自分の常識他人の非常識になる可能性もある。何を科学的枠組みとするのかは何を世界平和とするのか、と同じ問いのようにすら感じます。
by usagi (2005-08-02 06:02) 

Tobermory

非常に興味深い問いかけでした。「なぜ」は人間の知的活動の最初の一歩であり、永遠になくならない探究心の源泉だと思います。
もしかすると遥か未来にはすべての学問は統合されてしまうのかもしれませんね。
by Tobermory (2005-08-02 20:52) 

三平太

しょちょうさん

僕が言い得なかったことをきれいに補充していただいてありがとうございます。おっしゃる通りですね。実用性云々に関しては、現在の僕が意識的に科学から還元を求めるもので、一般的な科学の特徴はそうではなく、むしろ非実用性にあるといっても良いぐらいですね。基本的には一般的に非実用的であっても、僕にとって還元されればいいわけです。そこには選択肢があるのだと。そう言う目的意識の確認でした。
僕は自然科学だけでなく社会科学も視野に入れて書いたんですが、しょちょうさんが「宗教・哲学との対比から、ここで言う科学とは自然科学だ」と思われた理由に興味があります。サイエンス・ウォーズですかおもしろそうですね。「科学」という言葉は多くの意味を含みますので、その議論の発展に期待しています。

usagiさん。

おもしろいコメントですね。「花が赤いです」の話ですが、僕、こういう話好きです。「この時の『なぜ』は不安に起因する反射的なもの」というくだりにはっとしました。というのは、僕の「なぜ」も常に不安に起因していたからなのです。もちろんこういった不安に起因した態度が科学的ではないということにはならないのですが、僕はその傾向を自分にとって好ましくない嗜癖(addiction)傾向だと思うにいたり、それを改めたくて上記のような決意を書いたのです。なにを科学的枠組みとするかは、なにを世界平和とするか、まさにそこまで繋がっていくテーマですね。僕は自分の主観にたいして時として大きな恐れを感じてしまうことがあります。

Tobermonyさん

おっしゃる通りです。全ての学問はどこかで繋がっています。僕は自分にとっての探求心の源泉を大事に育てていきたいです。
by 三平太 (2005-08-03 01:45) 

Aa

はじめまして。
私の考える科学的たり得ない「なぜ」について論じてみたいと思います。
それは先入観があり、否定するための「なぜ」です。例えば、「なぜあなたはそんなことを問題にするのか、今すべきはもっと高尚な議論ではないか」といった、「なぜ」です。
もちろんここからでも知の探求を続けていくことは出来ます。しかしそれはなぜという問いを発した側の成果ではなく、問われた側がどう答えるかに依存しています。
つまり、「なぜ」という問いを発した人は、本来その答えを自分で見つけなくてはならないのです。もちろん人に聞くのでも書物で調べるのでも構いません。しかし自分で知ろうとし、考えなくてはならない。
簡単に言えば、「なぜ」という問いが科学的たり得るかは、結局はそれを発した人自身の姿勢によるところが大きいと思うのです。

僭越ながら三平太さんの「どうしてなんだろう」が肯定的なものでなかった理由について、推察申し上げますが、それは現実に対するネガティブな意志から発していたからではないでしょうか。「どうしてこんなことをしなくちゃいけないんだろう」というのは、こんなことをしたくないから言うのであって、本当にしなくちゃいけない理由を探求しているわけではないのです。いえ、本当にするべき理由を見つけることが出来れば、その彼は幸福になる可能性がありますが、それはやっぱり他者依存をはらんでいます。

この他者依存っていうのが科学的なのか?というのが、私の考える要ですね。
みんなが「なぜ」「どうして」と問うだけで、当の思索を相手に委ねてしまうのみならば、結局科学は発展しません。
・・・私の言っていることが、的外れだったらすみません。
by Aa (2005-08-03 12:06) 

三平太

Aaさん、お返事が遅れて申し訳ありません。あまりに的確に代弁していただいたので、返答に少し時間がかかったのです。「『なぜ』という問いを発した人は、本来その答えを自分で見つけなくてはならない」。まさに、その通りです。Aaさんの「その他者依存というのが科学的なのか」と言う意見は、僕が言おうとした事とほとんど同じ事をおっしゃっているように聞こえます。ご推察の通り、以前の僕の「なぜ」「どうして」は現実に対するネガティブな意志から発していて、多分に共依存的なものだったのです。僕はそれを認め、乗り越え、やっとこの地平に立っているのです。本当の思索を相手に委ねず、自分で引き受ける姿勢は、それが哲学であろうと、宗教であろうと、科学であろうと同じなのです。科学、宗教、哲学といった言葉は、僕にとってはそういう意味があるのです。Aaさん、ありがとうございました。
by 三平太 (2005-08-04 03:39) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

ついつい忘れてしまう決意その2 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。